かなり忘れかけていますが…
9月に緩和ケア科を受診。
先生と看護師さんとの面談。
まだ消化器内科も受診していて、
緩和ケア科と協力してという感じでした。
しかし、もう抗がん剤治療はあきらめているので、
治療はできない、しない。
その状況で今後どうするのか…
消化器内科の受診はやめて緩和ケア科1本にした場合、
入院はすぐにできるとの事でした。
この病院では、10Fフロアすべてが緩和ケア病棟です。
もしそのまま消化器内科と併用という事だと、
具合が悪くなり入院という事になっても、
もし空きがなければ待たなければならない。
でも、緩和ケア科1本であれば、
すぐに入院できるのです。
9月に初めて緩和ケアを受診してから、
母とどうするか話し合いました。
もう治療はしないのだから、緩和ケアだけにしよう。
母も納得していました。
その1ヶ月後に再度緩和ケアを受診。
今回は、緩和ケアで一番お偉い先生でした。
講演活動もされていて、緩和ケアでは名前も知られている女性の先生。
もし、緩和ケア科だけにするのであれば・・・
という事で、前回いろいろな質問や同意書を書く用紙をいただいていました。
その用紙を持参し、緩和ケアだけしますとお伝えしました。
緩和ケア科に移るには、その同意書と面談を行い、
合格?となれば移ることができます。
先生との話の結果、緩和ケアでお世話になることが決定。
鎮痛剤の処方、気持ち悪くて食べられなかったため、
その食欲を増す薬を処方していただきました。
その食欲が出る薬というのが・・・・
「デカドロン」でした。
その名前を聞いた時の私の気持ち、わかりますか?
デカドロン…
ステロイドです。
余命1~2ヶ月の患者に処方されると言うステロイド。
いきなりでしたので、
私は動揺しました。
母の容態はそんなに悪いのか・・・???
後に看護師さんに聞いたところ、
やはり先生方は、母の命は年内だと考えていらしたようです。
ところが、そのデカドロンが効く効く!
普通は1~3ヶ月の効果のようです。
それが母の場合、なんと亡くなる2週間前まで、
約7ヶ月半も効果があったのです。
つまり食べられた。。。。
その食べられた事が、余命半年を過ぎてなお、
1年も生きられた要因だと思っています。
10月以降の経過を・・・
12月
食欲はかなりある。
しかし下痢が続くようになってきた。
下着を汚すこともありおむつに。。
しゃがんでしまうと立ち上がれなくなる。
バスのステップを上るのがやっと。
私、介護休業をとり休職。
1月
介護休業はとったが、月10日は働いても大丈夫なので、
不足のところを出ていた。
3日、仕事から帰ってくると、母がひどい格好で寝ている。
足は床に着き、体は仰向けでベッドで寝ている状態。
自分で体位を変えることが困難になってきた。
長い時間一人にはできなくなってしまった事を実感する。
痛みが強くなり、あまり食べられなくなってしまった。
体重30キロをきる。
寝ている事が多い。
薬を一部変更。
フェントステープとタペンタがベースで、イーフェンバッカルとオプソがレスキュー薬。
薬が効いて食欲復活。
下痢がひどい。
下旬にCTを撮る。
7月と比べて、腫瘍は4割増し程度大きくなっていた。
が、他転移はなし。
腹膜播種はある。
今後、腹膜播種の影響で、腸に穴が開いたり腹水がたまったりする事があるとの事。
2月
梅を見に、母を森林公園に連れて行く。
まだこのころは杖を突いてなんとか歩けていたが、
園内では車いすをレンタル。
3月
まだ要介護1だったので、自費で車いすをレンタルする。
(4月から要介護2に)
外出は車いすで…
お彼岸に旦那の実家に行き墓参り。
帰ってくると母は一人で風呂に入り、湯船から立ち上がることができずにいた。
もう少し遅かったら危険なことになっていた。
その後は、旦那に風呂に入れたもらう事となった。
訪問入浴を考える。
突然、せん妄が現れる。
病院に行ったことや先生と話したことさえも覚えてなかった。。
4月
訪問入浴と介護タクシーの利用を始める。
痛みも強くなってくる。
家の中ではなんとか伝い歩きできる。
病院の隣は、桜の名所。
まさか桜を見られるとは思っていなかった…
お迎え(介護タクシー)の時間を1時間くらい遅くしてもらい、花見。
たこ焼きを食べる。。
睡眠導入剤を服用しなくても眠れるようになる。
眠っている時間が多くなり、夜も8時ころに寝てしまう。
5月
GW明け。
あまりにも眠っている時間が長く、
トイレに何時間も行かない事が・・・
10日入院。
血液検査の結果、CRPの数値が高い。
アルブミンも減少。
「悪液質」のため、もうあまり長くないと言われる。
入院翌日、母の様子がおかしい。
車いすに乗り、隣の部屋に行ってしまったり、
不思議な風景が見えたと言ったり・・・
せん妄が強くなってきた。
が、入院後1週間くらいから痛みはなくなる。
レスキューのイーフェンを一度も飲まない。
水を飲むとむせるようになる。
デカドロン服用から、同じステロイドのリンデロンの注射に変更。
20日、外出許可をいただき、バラまつりを見に行く。
これが最後の外出となってしまった。
これ以降、体調悪化。
眠っている時間が長くなる。
せん妄のひどい時と正気に戻る時と・・・・
大河ドラマを見ながら、叔母の持って来てくれた沢庵を
私とふたりしてボリボリと食べた。
こんなにしょっぱい物、糖尿が悪化しているのにまずいよね。。。
と言いながら。。。
体が痒くてかきむしる。
痛み止めも点滴となっていたため、かいて点滴がとれてしまう。
痒み止めの注射を練る時に打ってもらう。
私の泊まり込みが始まる。
とうとう歩けなくなる。
トイレはポータブルに。。。
トイレに座ると、便を出し切るまでに1時間かかってしまう。
6月
導尿にしてもらった。
ただしお通じはポータブルトイレで。
点滴も足になり、抜くこともなくなったため、
私はまた通いに。。。
亡くなる1週間くらい前から、あまり食べなくなる。
果物やさっぱりしたものだけ食べると言う感じ。
ほとんど寝たまま。
12日、仕事が不足だったので夕方から出ることに。
昼間病院へ。
昼食後から、息が荒くなる。
血中酸素濃度が93。
酸素マスクをつける。
仕事に行くのをあきらめ、泊まり込みに。。
13日朝、看護師さんに昨夜酸素量を増やしたということを聞く。
容態はかなり悪い。
会いたい人がいるのであれば呼ぶようにと…
尿が出なくなっていたので、
尿の管を抜いてもらった。
脈や心音が弱くなってくる。
担当看護師さんに、今夜持つかどうかと言われ、
夜8時には、叔母、弟夫婦、我が家の家族全員がそろう。
ずっと息が荒い。
肩で息をしている状態。
下顎呼吸も見られる。
14日。
母の心臓はやっぱり強い。
チアノーゼが見られるようになってきたが、
あまり容態は変わらない。
15日。
危篤状態から3日目の朝。
家族は朝食を終え、それぞれなんとなくぶらぶら。
足を見てみると、紫色。
あまりにも紫色だったのでびっくり。
一生懸命マッサージを行う。
手もさすっていると、突然びくっとなって母は突然目を開け、私を見ている。
でも反応がない。
息をしていない。
「息をして!」と叫んでいると、ちょうど看護師さんがバイタルチェックに・・・
飛んできて声をかける。
母、大きく息をする。
聴診器で心臓の音を聞くが、聴こえないと看護師さん。
おそらく9時40分頃。
先生が見え、臨終の確認を。。。
9時50分臨終。
昨年5月1日に、あまりにも続いている腹痛のため受診してから、
1年1ヶ月。
本当によくがんばった母でした。