2019年04月10日

今でも飾られているのだろうか。。

先週、無線山の桜を見てきました。
3年ぶりに。。
3年前、母と最期に花見をした場所。

ここは上尾駅から続く道沿いにあるがんセンターの、
道路をはさんで向かい側にあります。
また私が通っている病院に行く時は(バスで)必ず通りますので、
通るたびに母を思い出します。
やっと今年、行くことができた。

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今年は寒いせいかかなり桜もちましたね。
桜のある入学式なんて久しぶりだったのではないでしょうか。

病院に行く時、必ずがんセンターの中までバスが入っていくので、
もう思い出さずにはいかないのですが、
最近はやっと慣れたかな。

母が亡くなって6月で3年。
昨年3回忌を行って、毎年続いた法事も今年はなし。

いまだに母が夢に立つ事はなく、
本当に思い残すことはないんだなあと笑ってしまいます(笑)
最近は、部屋にお線香の香りが漂う事もあまりなくなったし。。。

B型だったので、思い込んだら一途。
自分が満足すればいいのです。
よくも悪くも、自分が納得できればいい。

膵臓癌だとわかった時もそうでした。
周りの方も膵臓で亡くなられた方が何人かいたので、
膵臓癌は治らないと思い、
診断が下った時にはもう覚悟ができていたのだと思います。

診断されたのは2015年の5月。
その年の10月にある、市の美術展に写真を出品できれば、
あとは思い残すことは何もないと常々言っていました。

緩和病棟に入院した時、
母の写真を持ちこみました。
カレンダーのかかったいたところに、その写真を飾りました。
ベッドの真正面。

母はその写真を眺めていました。
それだけで幸せでした。(と思う)

亡くなった後、その写真を病院に寄付してきました。
後に緩和病棟に飾られたと看護師長さんから電話をいただきました。
今でもその写真飾られているのでしょうか。

↓の写真です。。

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2019年03月21日

お彼岸

今日は暖かくなりました。
朝は曇っていてちょっと寒かったのですが、
家を出るころには陽がさしてきてぽかぽか。

お彼岸ですね。
墓参りに行ってきました。
今は休職中でいつでも家にいるのだから、平日に行ってもいいのですが、
祭日なので霊園まで駅からバスがでるのです。

普段は駅から路線バスに乗り、
降りたら15分くらい歩きます。
が、今日は歩かなくてもいい~

霊園の駐車場は満杯です。
墓地もたくさんの人。

母の墓参りは先月、入院する前に来ました。
その時の花はない。
お墓、とってもきれいになっています。
この霊園、いつ来てもきれいです。
管理が行き届いています。
お彼岸だから特別にきれいにしていただいたのかな(^^)

母が亡くなって今年6月で3年。
早いですね。
亡くなった年は毎月必ず墓参りに来ていました。
2年目は1か月おきくらいで。
3年目は・・・・
うはは。。。
でも3ケ月に1回は来ていますよ。

家で仏壇に手を合わせている時はしないけど、
お墓に来ると話しかけてしまいます。

「手術終わったよ~
 また労災審査始まったよ~~」

とか。

いつも墓参りに来る時は風が強くて、
お線香に火をつけるのが大変なのですが、
今日は風がなくて楽でした。
帰る時に風が強くなってきて、その前に来てよかった~と。。

お彼岸は、他のお墓もお参りしても良いと聞いていたので、
お隣に住んでいたおばあちゃんとおじいちゃんのお墓にもお参り。
同じ霊園なのです。
母が買ったら、おばあちゃんちもそこにしたと言う。。。(笑)
おばあちゃんも亡くなってからどのくらい経ったのかな。
子どもたち可愛がっていただきました。

霊園には、バスふたつ乗り継いでいきます。
途中、入院していたがんセンターの近くを通るのですが、
そのすぐそばに「無線山」と呼ばれている桜の名所があります。
バスもその前を通るのですが、
ついつい桜はまだか?と見てしまう。

ここは母と最期の花見をしたところ。
診察の帰り、介護タクシーのお迎えを送らせてもらって花見しました。
満開の桜の下で、たこ焼き食べました。

母が亡くなってから無線山の桜、見ていないなあ…
今年は行ってみようかな。

無線山の桜(今年のではありません)
桜の木の向こうに見えるのが、ガンセンターの駐車場。

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2018年12月28日

病院に行く時

通院している病院は、上尾のお隣『伊奈町』にあります。
総合病院で、整形外科は結構知られている病院です。
その病院へは、自宅から4キロ。

膝の前十字靭帯もこの病院で手術してリハビリ受けてました。
特に問題なければ自転車で通ってましたが、
今は自転車にも乗れないのでバスで行きます。

そのバスは、母が入院していたがんセンターを通ります。
がんセンター経由なので、病院の敷地内に入って行きます。
ここで降りられる方が多い。
そして乗りこんでこられる方も多い。

県立病院で、施設も新しくきれい、
治験も行っていたし、最新の医療を受ける事ができます。
母はタペンタという薬を服用していましたが、
まだ新しく出た薬だと先生はおっしゃっていました。
あの頃はその薬の名前、ほとんどみかけませんでしたね。。

院内にコンビニがあり、
レストランやカフェまでも。。
電光掲示板で自分の診察番号が表示されるまで、
カフェでのんびり待つことができます。

ここに母は、2年半前に40日程入院、
そして亡くなりました。
最上階は緩和病棟のみ。
全て個室で、有料個室以外は差額は生じません。
とは言っても、有料個室はシャワーがついてて、
付添用のソファ(ベッド)があるのみなので、一般病室で十分です。
シャワーなんて入院したらあびられませんし。。。

東西に病室があるのですが、
見学した時は西病棟のみでまだ東病棟はオープンしていませんでした。
その半年後、入院した時は東病棟がオープン。
そのオープンしたばかりの病室に入院しました。

その病室からは、お隣の乗馬クラブが見えました。
そして家の方向も…
病室を出て東の方向には筑波山。
いつも筑波山見てました(笑)

このブログは「ブログ村」と言うところに登録しているのですが、
カテゴリを選ぶ事ができ、
私は3つ登録しています。

・すい臓癌 ・手足、腕・膝 ・DTM

今はすい臓癌のブログは書いていませんが、カテゴリは残しています。
私が体験してきた闘病記が、少しでもお役にたつかもしれないと思い…

そしていまだにすい臓癌の闘病ブログを読んでしまう…
私のような思いをされた方が、たくさんいらっしゃる。。。
そのブログを書かれていて、
もしかしたら同じ病室に入院されていたかもしれない方が、
日曜日お亡くなりになりました。

病室から撮った乗馬クラブのお写真。
その方も、同じ風景を見ていたんだなあ…
きっと筑波山も。。

ご冥福をお祈りいたします。

バスががんセンターに止まると、降りようかなと思う事があります。
カフェであのバナナジュースが飲みたいなあと。。

美味しかったんですよ、あのバナナジュース。
母と私はもちろん、お見舞いに来てくださった方にもお出しして飲ませてました(笑)
まだありますかねえ。


あ、母が亡くなった後、母が撮った写真を寄付してきました。
病室にかけて母はずっとそれを見ていました。
寄付したあと、看護師長さんからお電話をいただき、
緩和病棟に飾らせていただきますとおっしゃっていました。
それもまだ飾られているのでしょうか。。

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2017年06月26日

ご冥福をお祈りいたします・・・

22日に亡くなった小林麻央さん。
23日に亡くなったことを知った時(亡くなったのは22日)、
やはり・・・という思いと、ショックな気持ちが。。。

彼女のブログは読んでいました。

10メートル歩くのもやっと・・・
高熱が出る・・・・
数か月前までは食欲があって喜んでいた・・・・

こんな経過を読んで、
ああ・・・・と悲しい気持ちになっていました。
麻央さんも母と同じような経過を・・・と。。
麻央さんも癌悪液質だと・・・

母は亡くなる1ヶ月程前に歩けなくなり、
2週間前から食欲が落ちました。
ステロイド服用の効果がなくなったのです。。
食道の筋肉もなくなってきて呑み込むことも困難になっていました。

1ヶ月前に入院した時のCRPは5.9。
悪液質だと先生に言われました。
きっと亡くなる直前は、もっと数値が高かったでしょう…

容態が急変したのは、12日。
亡くなったのは15日でしたから、3日前の事です。
悪液質のため筋肉が落ち、
心臓を動かす筋肉にも影響が出て・・・という事だと思います。
12日の午後から急に呼吸が荒くなり、
血中酸素が下がり始めました。
脈拍も弱くなり、
翌日の朝には、危険な状態である事を告げられました。
3日後、がんばっていた心臓の筋肉も力尽き、
意識が戻ることなく亡くなってしまいました。

おそらく旦那様の海老蔵さんにも、
そのような状態である事は医者から告げられていたのではないかと思います。
どんなにおつらかったことか…

もちろんもちろん、亡くなった麻央さんのくやしい想い・・・
小さな子どもを残して逝くことは、どんなに無念だったことか。

でも母を失った私には、
海老蔵さんがどんなに苦しい想いをされているのかよくわかります。
癌だと宣告された時から、
海老蔵さんも戦ってきたのです。
きっと本人には言えない事もたくさんあったでしょう。

麻央さんの心の苦しみを知っていたからこそ、
海老蔵さんも立ち向かわなければならなかった。。。
決して弱音は吐く事はできない。

麻央さんんは亡くなってしまった。
戦いは終わったけれど、
海老蔵さんにとっては、
今度は自分の心と向き合い戦っていくことになるのです。。

やれることはやった・・とは思っていても、
後悔は残るのです。
その後悔が消えることは一生ないでしょう。

私も・・・

母の1周忌が過ぎ、
一区切りついたはずなのですが、
やはりまだまだ想い出に変えることはできません。

麻央さん、
本当に強い方でした。
もし自分が癌になり余命いくばくもないとわかっても、
麻央さんさんのように強い意志を持ち続けられるのか・・・

ご冥福をお祈りいたします。
posted by BAMIKO at 20:28| Comment(0) | 母のすい臓がん闘病日記 | 更新情報をチェックする

2017年06月09日

明後日は1周忌

6月です。
母が亡くなった6月になってしまいました。
15日が命日ですが、明後日10に1周忌を行います。

この1年早かった・・・のでしょうね。
仕事が忙しくてそう感じてしまうのかもしれませんが…

5月30日・31日に、母の故郷である山形へ行ってきました。
母の実家の墓参りが目的です。
母の母が眠る墓。。
亡くなったことを報告しなくては・・・と思い。。。

膵臓癌が発覚したその年(2015年)、母を連れて山形へ行きました。
あれから2年。
墓の場所を覚えているか不安・・・・
旦那と探し回って、あったあった。。。安堵。。。(^^;
たぶん、ここへ来るのは最後かもしれない。
山形には、母の兄弟はだれもいませんし。。

寺内にあるイチョウの木。

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NHK BSででやっている「こころ旅」で紹介された木です。
2年前に来た時は、全然気にしなかったなあ・・・・

墓参り後は市内観光。
霞城セントラルの展望台にも行きました。
ここも2年前、母と来た場所です。

山形に来るのはこれが最後かもしれない・・・

そんな母が最期に見た山形の風景。
どんな思いだったのでしょう。
切なくなりました。

2日目は、やはり2年前に宿泊したかみのやま温泉へ。
市内を観光し、今回私が行きたかった楢下宿へ。
そして白石に抜け東北道で帰ってきました。
母との思い出をたどった旅でした。

明日は早帰りなので、
引出物のお菓子を買ったり、
お供えの果物を買ったり。。。

そして明後日、母がいなくなってしまった事を再実感する日ですね。


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2016年11月17日

もう5ヶ月

あんなに暑かった夏が過ぎ、
秋は駆け足ですぎでもう冬?
早いもので母が亡くなって5ヶ月。

6月15日に亡くなったので、
毎月15日あたりに墓参りに行っている。
が、今月は風邪をひき体調が悪くて行っていない。。
来週いけるとよいけど。。。

今でも、母が危篤になったあの3日間を思い出す。

「死への過程」というサイトを読むと、
ああ、本当にそうだったなあと思う。
最期はセデーション(鎮静)を行い亡くなったけど、
そのおかげで苦痛なく逝くことができた。

母は高齢だったので、
癌に最後まで立ち向かう事はせず、
2ヶ月で治療することをあきらめてしまったけど、
それでよかったのだと思う。
母も私も家族も、
治療をあきらめ緩和という道を選んだからこそ、
その長い時間の中で、死に対する理解を得ることができた。
緩和を選んだからこそ、
普通の死を迎えることができたのだと思う。

普通に見送ってあげることができたからこそ、
私は何の後悔もなく、
こうして普通に日常を送ることができている。

うん。。
本当に後悔はない。
できるだけの事はした。


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2016年08月04日

母の記録②

かなり忘れかけていますが…

9月に緩和ケア科を受診。
先生と看護師さんとの面談。
まだ消化器内科も受診していて、
緩和ケア科と協力してという感じでした。

しかし、もう抗がん剤治療はあきらめているので、
治療はできない、しない。
その状況で今後どうするのか…

消化器内科の受診はやめて緩和ケア科1本にした場合、
入院はすぐにできるとの事でした。
この病院では、10Fフロアすべてが緩和ケア病棟です。
もしそのまま消化器内科と併用という事だと、
具合が悪くなり入院という事になっても、
もし空きがなければ待たなければならない。
でも、緩和ケア科1本であれば、
すぐに入院できるのです。

9月に初めて緩和ケアを受診してから、
母とどうするか話し合いました。
もう治療はしないのだから、緩和ケアだけにしよう。
母も納得していました。

その1ヶ月後に再度緩和ケアを受診。
今回は、緩和ケアで一番お偉い先生でした。
講演活動もされていて、緩和ケアでは名前も知られている女性の先生。

もし、緩和ケア科だけにするのであれば・・・
という事で、前回いろいろな質問や同意書を書く用紙をいただいていました。
その用紙を持参し、緩和ケアだけしますとお伝えしました。

緩和ケア科に移るには、その同意書と面談を行い、
合格?となれば移ることができます。

先生との話の結果、緩和ケアでお世話になることが決定。
鎮痛剤の処方、気持ち悪くて食べられなかったため、
その食欲を増す薬を処方していただきました。

その食欲が出る薬というのが・・・・

「デカドロン」でした。
その名前を聞いた時の私の気持ち、わかりますか?

デカドロン…
ステロイドです。

余命1~2ヶ月の患者に処方されると言うステロイド。
いきなりでしたので、
私は動揺しました。

母の容態はそんなに悪いのか・・・???

後に看護師さんに聞いたところ、
やはり先生方は、母の命は年内だと考えていらしたようです。

ところが、そのデカドロンが効く効く!

普通は1~3ヶ月の効果のようです。
それが母の場合、なんと亡くなる2週間前まで、
約7ヶ月半も効果があったのです。
つまり食べられた。。。。
その食べられた事が、余命半年を過ぎてなお、
1年も生きられた要因だと思っています。


10月以降の経過を・・・

12月
 食欲はかなりある。
 しかし下痢が続くようになってきた。
 下着を汚すこともありおむつに。。
 しゃがんでしまうと立ち上がれなくなる。
 バスのステップを上るのがやっと。
 私、介護休業をとり休職。

1月
 介護休業はとったが、月10日は働いても大丈夫なので、
 不足のところを出ていた。
 3日、仕事から帰ってくると、母がひどい格好で寝ている。
 足は床に着き、体は仰向けでベッドで寝ている状態。
 自分で体位を変えることが困難になってきた。
 長い時間一人にはできなくなってしまった事を実感する。 

 痛みが強くなり、あまり食べられなくなってしまった。
 体重30キロをきる。
 寝ている事が多い。
 薬を一部変更。
 フェントステープとタペンタがベースで、イーフェンバッカルとオプソがレスキュー薬。
 薬が効いて食欲復活。
 下痢がひどい。
 下旬にCTを撮る。
 7月と比べて、腫瘍は4割増し程度大きくなっていた。
 が、他転移はなし。
 腹膜播種はある。
 今後、腹膜播種の影響で、腸に穴が開いたり腹水がたまったりする事があるとの事。

2月
 梅を見に、母を森林公園に連れて行く。
 まだこのころは杖を突いてなんとか歩けていたが、
 園内では車いすをレンタル。

3月
 まだ要介護1だったので、自費で車いすをレンタルする。
 (4月から要介護2に)
 外出は車いすで…

 お彼岸に旦那の実家に行き墓参り。
 帰ってくると母は一人で風呂に入り、湯船から立ち上がることができずにいた。
 もう少し遅かったら危険なことになっていた。

 その後は、旦那に風呂に入れたもらう事となった。
 訪問入浴を考える。

 突然、せん妄が現れる。
 病院に行ったことや先生と話したことさえも覚えてなかった。。

4月
 訪問入浴と介護タクシーの利用を始める。
 痛みも強くなってくる。
 家の中ではなんとか伝い歩きできる。
 
 病院の隣は、桜の名所。
 まさか桜を見られるとは思っていなかった…
 お迎え(介護タクシー)の時間を1時間くらい遅くしてもらい、花見。
 たこ焼きを食べる。。
  
 睡眠導入剤を服用しなくても眠れるようになる。
 眠っている時間が多くなり、夜も8時ころに寝てしまう。
 
5月
 GW明け。
 あまりにも眠っている時間が長く、
 トイレに何時間も行かない事が・・・
 10日入院。
 血液検査の結果、CRPの数値が高い。
 アルブミンも減少。
 「悪液質」のため、もうあまり長くないと言われる。

 入院翌日、母の様子がおかしい。
 車いすに乗り、隣の部屋に行ってしまったり、
 不思議な風景が見えたと言ったり・・・
 せん妄が強くなってきた。

 が、入院後1週間くらいから痛みはなくなる。
 レスキューのイーフェンを一度も飲まない。

 水を飲むとむせるようになる。
 デカドロン服用から、同じステロイドのリンデロンの注射に変更。

 20日、外出許可をいただき、バラまつりを見に行く。
 これが最後の外出となってしまった。
 これ以降、体調悪化。
 眠っている時間が長くなる。
 せん妄のひどい時と正気に戻る時と・・・・

 大河ドラマを見ながら、叔母の持って来てくれた沢庵を
 私とふたりしてボリボリと食べた。
 こんなにしょっぱい物、糖尿が悪化しているのにまずいよね。。。
 と言いながら。。。

 体が痒くてかきむしる。
 痛み止めも点滴となっていたため、かいて点滴がとれてしまう。
 痒み止めの注射を練る時に打ってもらう。
 私の泊まり込みが始まる。

 とうとう歩けなくなる。
 トイレはポータブルに。。。 
 トイレに座ると、便を出し切るまでに1時間かかってしまう。
 
6月
 導尿にしてもらった。
 ただしお通じはポータブルトイレで。
 点滴も足になり、抜くこともなくなったため、
 私はまた通いに。。。

 亡くなる1週間くらい前から、あまり食べなくなる。
 果物やさっぱりしたものだけ食べると言う感じ。
 ほとんど寝たまま。

 12日、仕事が不足だったので夕方から出ることに。
 昼間病院へ。
 昼食後から、息が荒くなる。
 血中酸素濃度が93。
 酸素マスクをつける。
 仕事に行くのをあきらめ、泊まり込みに。。

 13日朝、看護師さんに昨夜酸素量を増やしたということを聞く。
 容態はかなり悪い。
 会いたい人がいるのであれば呼ぶようにと…
 尿が出なくなっていたので、
 尿の管を抜いてもらった。

 脈や心音が弱くなってくる。
 担当看護師さんに、今夜持つかどうかと言われ、
 夜8時には、叔母、弟夫婦、我が家の家族全員がそろう。
 ずっと息が荒い。
 肩で息をしている状態。
 下顎呼吸も見られる。

 14日。
 母の心臓はやっぱり強い。
 チアノーゼが見られるようになってきたが、
 あまり容態は変わらない。

 15日。
 危篤状態から3日目の朝。
 家族は朝食を終え、それぞれなんとなくぶらぶら。
 足を見てみると、紫色。
 あまりにも紫色だったのでびっくり。
 一生懸命マッサージを行う。
 手もさすっていると、突然びくっとなって母は突然目を開け、私を見ている。
 でも反応がない。
 息をしていない。
 「息をして!」と叫んでいると、ちょうど看護師さんがバイタルチェックに・・・
 飛んできて声をかける。
 母、大きく息をする。
 聴診器で心臓の音を聞くが、聴こえないと看護師さん。
 おそらく9時40分頃。
 
 先生が見え、臨終の確認を。。。
 9時50分臨終。

昨年5月1日に、あまりにも続いている腹痛のため受診してから、
1年1ヶ月。
本当によくがんばった母でした。

 

ラベル:膵臓癌
posted by BAMIKO at 01:29| Comment(0) | 母のすい臓がん闘病日記 | 更新情報をチェックする

2016年07月15日

母の記録①

母が亡くなってから、今日でちょうど1ヶ月。
先日の日記でも書いたように、
この1ヶ月が長かったのか短かったのか…

母は80歳で膵臓癌が発覚しました。
余命半年と言われながら、
1年1ヶ月も生きることができました。
抗がん剤は、ジェムザールを2クール。
それ以降は癌の治療はせず、
痛みのコントロールを行うのみでした。
それでも、抗がん剤の副作用がなくなり食べられるようになったからなのでしょうか。
体調に波があり、食べられなくなることもありましたが、
緩和ケア科に移ってからは、
ステロイドのおかげで食欲があり、
入院するまできちんと食べられていました。
ここまで生きることができたのは、
やはり食べられたからだと思います。
これまでの事をまとめてみようと思います。

2015年年明けとともに、血糖値が上がる。
腹痛もあり、近所のかかりつけ医院で検査を受けるが異常なし。

5/1  腹痛が強いらしく、私に病院に連れて行ってほしいと言う。
   I病院でCT検査を受け、膵臓が腫れているとの事。

5/7  エコー検査とMRI。
   膵臓に腫瘍があると宣告される。
   がんセンターへの紹介状を書いていただく。

5/14 がんセンター消化器内科受診。
   再度詳しく検査の結果、手術できるかもしれないとの事。

5/20 消化器外科受診
   手術できそうだとのことで、それに向けての検査を予約

5/27 夜8時過ぎ、先生から電話。
   手術を6/15に行うとの事。
   その前に6/1に入院して肝動脈塞栓術を行う。

5/29 仕事中に先生から電話。
   話があるのでかぐに来てほしいとの事。
   夕方母を連れて病院へ。
   院長先生などと再度検討した結果、
   小腸への血管の浸潤が、思っている以上に深そうだとの事で、
   やはり手術は無理ではないか…
   手術をあきらめる。

   → 手術ができない理由

6/4  再び消化器内科を受診。
   今後の治療についての話。
   絶望的な状況でした。

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6/10 初めての抗がん剤は入院して行う。
   3日間入院

6/15 故郷の山形へ弟と3人で旅行。
   到着早々、激しい腹痛のため観光どころではなかった。
   しかしこれは癌の腹痛ではなく、下剤の飲み方を間違えたためだった。。。

   ジェムザールを2クール。
   7月下旬まで行う。

7/29 CT検査の結果、効果がなかった事を確認。
   TS-1に変えるか、きっぱりやめるか・・・

8/19 抗がん剤をやめたせいか、食欲が出てきた。
   抗がん剤をやめる決意をしたことを先生に伝える。
   緩和ケア科を受診する事を希望。

9/9  緩和ケア科受診。
   介護認定を受ける事を勧められる。
   
   9月中旬、要介護1の認定が下りる。

緩和ケア科編は次回に。。。

   
       
posted by BAMIKO at 21:55| Comment(0) | 母のすい臓がん闘病日記 | 更新情報をチェックする

2016年06月27日

夢に出てこないのは

今日は、行田の八幡神社へ行ってきました。
ガン封じとして知られている神社です。

昨年5月に母と参拝、お祓いを受けてきました。
その時にいただいたお守りを持って。。。

八幡神社。
NHKの大河ドラマ「真田丸」で、
先週でしたでしょうか。
石田光成がなかなか落とせなかった「忍城」の話がありましたが、
その忍城があるのが行田市です。
その城からたぶん歩いて20分くらい???
のところに八幡神社があります。

吹上駅からバスが出ているんですねーーー
以前は、熊谷から秩父鉄道で行田市駅に行き、
そこから歩いていたのですが、
吹上駅からだと、バスで約15分弱。
「総合教育センター(佐間経由)」行きに乗り、
新町2丁目バス停で降りれば、そこから歩いて5分もかかりません。

懐かしい八幡神社。。
行田八幡神社.jpg

涙が出ます。
「なで桃」を撫でて、癌が治りますようにって癌をかけたんだよね。
本堂で緊張しながらお祓いを受けたんだよね。。

そんな事を思い出しながら泣いてました。
平日で人がいなかったので、全然気にすることなく。。

お守りはどうしたらよいのかわからなかったので、
社務所でお伺いしたら、
お焚き上げしてくださるとの事。
お渡ししてきました。

しばらくメソメソして帰ってきましたけど、
いつまでもメソメソはよくないんですよね。。
せっかく成仏したのを引き戻すことになってしまうのかしら。。

まだ亡くなって12日です。
心の底から楽しんだり笑ったりはまだできません。
それでも、悲しみを忘れていかなければならないのですよねえ・・・

あの日の事が忘れられないのです。

病状が急変した12日の深夜。
たぶん「身の置き所のない」状態になり、
動かずにはいられない状態だったのでしょう・・・
体をかこうとするその手を握ったら、
私の左手首あたりをつかんでさするのです。
一生懸命・・・
私を見ながら・・・

つらかったんだろうな。
私にどうにかしてほしいと訴えていたのだろうかと思うと、
たまらなくて。。
あの手の感触、きっとずっと忘れることはないと思います。

母に対して、私はできるだけのことはやったとは思っているけど、
けどやっぱり悔いは残る。

でも、夢に出てこないのはなぜなんだろう・・・

と思ったら、コメントをくださった方がおっしゃっていました。
近すぎる方の所には出てこないのだと。。。

ネットで調べてみたら、
夢に出てこないのは、思い残すことがなく成仏できたからだとの事。

ああ、そうなんだ。
母自身は、悔いは残さず旅立つことができたんだ。
それを私があまりにもメソメソていたら、
あの世で心配して戻ってきてしまうかもしれない。

絶対に忘れられないけど、
でもあの世と現世でお互い新たに生きていかなければならないのかもしれない。

でも、なかなかねえ。。
これ書きながらも涙でているもの。。(^^;
ラベル:
posted by BAMIKO at 22:59| Comment(5) | 母のすい臓がん闘病日記 | 更新情報をチェックする

2016年06月25日

手続き

母が亡くなって10日。
いろいろ手続きに走り回っています。

四十九日法要は来月末なので、
霊園に行って予約。
仏壇もカタログから選んだり、
開眼供養について聞いたり。。。

母の四十九日は8/2ですが、
初盆がすぐですので、
法要の時に新盆のお経もあげていただくことになりました。
横浜から来る叔母夫婦と叔父は高齢なので、
何度も来ていただくのももうしわけなくて。。

なので、その日は四十九日法要と仏壇とお墓の開眼供養、
新盆の4回のお経?
お坊さんは、葬儀の時に来てくださった方に霊園の方で頼んでくださいました。

その後の会食をどうしようかと旦那と悩み・・・
交通の不便なところなので、送迎の問題があるのです。
幸い車で10分くらいの所に「とんでん」があるので、
そちらで会食することにしました。
霊園の会館でもできるのですが、
なんせ葬儀の時と同じ業者なんですよ。。。
当日は、旦那が2往復して送迎することになります。

市役所で、年金と後期高齢者医療、介護保険の手続き。
何回住民票や除票、戸籍謄本を取ったことか。。
年金は、年金事務所に行かないとダメという事で、
宮原まで行ってきました。

クレジットカードも解約したりして、
やっと手続き関係は終わったかな。。

あ、もっと大変な作業が残っていました。。

かんぽ保険の入院給付金。
あれは相続財産となるのだそうです。
当人が受け取るはずだった給付金だから・・・との事です。

なので、生まれた時からのすべての戸籍謄本を取ってくださいと言われました。

ここに越してくる前に住んでいた東京北区役所にでかけ、
まだ死亡の連絡がないとの事で郵送をお願い。
それが昨日届きました。
それを見て、その前の戸籍を取り寄せ・・・
って感じになります。
あと、川崎市と山形市。。

山形市は、結婚と出生の両方になるのですが、
結婚の時の戸籍は、私の出生時の戸籍でもあるのでわかっても、
母の出生時の住所がわからない。。

先程メールで、
その住所を調べて一緒に送っていただくことは可能なのかと問い合わせしました。
相続って大変なんですね。


さて、今日からぼちぼち仕事始めます。
来月には完全復帰です。
体ついていけるかなーー(^^;
posted by BAMIKO at 17:47| Comment(3) | 母のすい臓がん闘病日記 | 更新情報をチェックする
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